[連載]タイの歴史①

みなさん、タイの歴史ご存知ですか?
現在のタイ王国は、チャクリー朝(バンコク朝とも)であり、先日ラマ10世が即位しましたね。
多くの人が、タイの都といえばスコータイやアユタヤのイメージであると思います。

現在のチャクリー朝と関係やそれ以前の歴史を理解している方は以外と少ないのでは??

ここでは、複雑なタイの歴史を時代時代に分けて連載していきます。
タイの歴史を語る上で、私は2つのアプローチがあると思います。

まず勿論、現在のタイ王国の地理的な歴史。

もう一つは、現在のマジョリティーであるタイ人(シャム人)の歴史。

島国で、ほぼ単一民族で民族間の移動が基本的には存在しない日本では考えられない感覚ですが、

大陸では、地理的歴史と民族的歴史の2つの観点が存在します。

第一回の今回は、タイ人が流入する前のインドシナ半島の歴史を振り返りましょう。

 


・タイ人流入以前のインドシナ半島
タイ人がインドシナ半島に移動してきたのは、11世紀中頃以降です。

しかし、考古学的にインドシナ半島に、考古学的裏付けのある王国が存在していたのは、

紀元前300年ごろからだと言われています(人類が到達したのは20000年前とも?)。

 

伝説では、紀元前1500年前から、

タイ中部に流入してきたモン族が、

紀元前300年ごろ現在のスパンブリー県周辺にドヴァーラヴァティー王国(スワンナプーム王国)を

建国したことから始まります。

 

モン族は、古代南アジアで栄えていたオーストロアジア語族系の民族です。

オーストロアジア語族は現在の、ベトナム語、クメール語、インドの方言の一つサンタリ語などとして残っています。
モン族は、現在もタイでは少数民族として実在、ミャンマーには800万人が実在しています。

 

諸説ありますが、ドヴァーラヴァティー王国は、ナコーンパトムを中心としたチャオプラヤー川沿いの

モン族による都市国家の連合体であるという見解が現在のところ有力です。

 

紀元前200年ごろにはアショーカ王の遣わした伝道者により上座部仏教を信仰し始めたとされています。

4世紀ごろワット・プラパトムチェーディー(タイのナコーンパトムにある仏教寺院。王室寺院の一つ。

世界一高い仏塔、プラ・パトムチェーディーを抱えることで有名)を建設し、

6世紀ごろから11世紀ごろまで東南アジアで繁栄したドヴァーラヴァティー王国は、

モン文字などを開発し、文明的にも政治的にも東南アジアの基礎を作りました。

 

このドヴァーラヴァティー王国は、モン族の都市国家的な意味合いが強いため、

時代によって盟主が変わっていることと、歴史書が残っていないため、

現在のタイ王国内に同時期に存在した他の王国との関係や境界線がかなり曖昧です。



 

5世紀中頃にその都市国家の一つとして、

チャオプラヤ川東岸のラヴォ(今のロッブリー)にモン族がラヴォ王国を建国したとされています。

学者によって諸説ありますが、クメール人や、マレー人も住んでいたという説もあり、

ビルマが起源で、チェンマイ平野経由で北部から流入したラワ族も国民の一部として存在していたとされています。

6世紀末に、クメール人系の国家である、今のカンボジアにあった真鍮が遠征してきての影響力が強くなり、

ドヴァーラヴァティー王国(都市国家の連合)の中におけるクメール人の影響が強くなりました。

以降、ラヴォ王国は、ドヴァーラヴァティー王国内における真鍮(クメール人)寄りの王国として成長し、

いわゆるチャオプラヤ川の東岸の都市国家の盟主として存在感を高めていき、

ドヴァーラヴァティー王国から独立していったのではないかと理解しています。

文化的にクメール系のラヴォ王国は、大乗仏教であり(支配者層は基本的にはモン族とされる)、

モン族系の上座部仏教であるドヴァーラヴァティー王国とは一線を画していました。

 

7世紀後半には、北部にも勢力を拡大し、

ラヴォ王の娘に今のチェンマイの場所にモン族系の国家ハリプンチャイ王国を建国させました。

ドヴァーラヴァティー王国とラヴォ王国、

ハリプンチャイ王国とモン族系の王国が現在のタイ中部以北を占領しました。


 


 

10世紀中頃、マレー半島で勢力を誇ったマレー人系のタンブラリンガが、

チャオプラヤ川の都市国家に遠征を仕掛け、これを占領し、

自身の王子(クメール人の王妃との子供:スリャヴァーマン1世)に統治させ、

ラヴォ王国は、タンブラリンガの属国となりました。

 

これにより、モン族は、北部のハリプンチャイ王国へと逃げ延び、この王国がモン族の中心となりました。

この後ラヴォ王国を再びモン族勢力下に取り戻そうとして、クメールとの間に何度も争いが起こります。


 


 

1010年、ハリプンチャイ王国はラヴォ王国に軍を送り攻撃を開始しました。

この戦いは十年も長引きましたが、マレー半島のクメール人の王(ナコーンシータンマラート)が

船で援軍を派遣したことにより、ハリプンチャイの軍は敗走することとなりました。

 

それから3年後の1023年にはラヴォ王(スーリヤヴァルマン1世)の軍隊がラムプーンに派遣され、

ハリプンチャイは攻撃に遭会いました。

 

11世紀中頃、ラムプーンにコレラが発生し6年間流行し続けた影響で、

モン族の一部は西のビルマ移動、その隙をつくようにタイ族をはじめとする異民族の進入が増え始めました。

タイ人が中国雲南省から南下し始めたのはこの頃からだとされています。

1090年ごろには、タイ人も含む異民族によるクーデターも発生しています。

 

一方現在のタイ中部、チャオプラヤー川流域のマレー、クメール系の王国となったラヴォ王国は、

イサーンに領土を拡大し、多くの寺院を建てましたが、

11世紀にはブルマ系のパガン王朝の成長によってラヴォへのクメールの影響は弱まっていきました。

1087年に一旦はパガン王国のチャンシッター王(1030年~1113年)がラヴォを侵略しましたが、

ラヴォ王国のナライ王はブルマ人を撃退し、クメールとブルマ人の覇権争いの間で存在感を増し、

ナライ王は首都をアユタヤ市に遷都しました。



 

 

以後、チャオプラヤー川の西岸のドヴァーラヴァティー王国にも影響を及ぼし、徐々に都市を奪っていきました。
ラヴォ王国の宗教はクメールの影響力によって多少の変化がありますが、

この時期は、クメール帝国に同化され、ヒンドゥー教と大乗仏教が主流となりました。

クメールの影響はラヴォの芸術や建築にも及び、プラーンサムヨート寺院が代表的であります。

 

再び北部のハリプンチャイ王国に目を向けますと、

1130年にかけてハリプンチャイ王、アーディッタはハリプンチャイ王国の異民族のクーデターを抑え、

国を統制し、再びラヴォ王国に侵攻しました。

この戦争ではクメール側が敗走し一時的にラヴォ王国がモン族側の勢力に入りました。

1150年、クメール勢力がラヴォ王国を取り戻したが、

この後、ラヴォ王国は文化的にハリプンチャイの影響を強く受け、

クメールから離反する動きを見せ、1155年に北宋に使節を送り、承認を受けるラヴォ王国として独立しました。

 


しばらくは、モン族系の王が、

チャオプラヤー川流域の都市国家の宗主国としてアユタヤを首都に統治していました(ラヴォ王国アユタヤ朝)が、

1239年、ついにスコータイのタイ族支配者がラヴォからの独立を宣言し、

スコータイ王朝が生まれ、タイ中部の歴史の中心はタイ人へと、移行していきます。

 

 


 

これまでの歴史を振り返ると、
タイ中部には宗教や民族が違う都市国家が多数存在し、境界線も曖昧で、非常に分かりづらくなっています。
また、都市国家の宗主国としての名称であるラヴィ王国ですが、

王国内の主な勢力が、スワンナプーム系(上座部仏教系)モン族、クメール系(大乗仏教系)モン族、

クメール族(真鍮国)、マレー人、ビルマ人と変わるたびに国家としての色合いが変わるにもかかわらず、

一貫して歴史上の名称はラヴィ王国であるため、非常に分かりづらくなっています。

 

タイ族が来る前のタイ中部は、多少宗教や民族の違う都市国家が存在していたにせよ、

大乗仏教系のクメール系モン族が歴史の大半を収めていたという認識でいいと思います。

 

次回は、タイ人(シャム族)の歴史について、掘り下げていきたいと思います。乞うご期待!!

 

 

こちらの記事も是非ご参考に!!

タイについて知ろう –基礎編①タイと日本の関係
http://www.sr-de.com/single-post/2016/12/10/taitonihon

バンコクやシラチャの気候や地理的特徴と、タイ各地の気候的特徴(タイについて知ろう-基礎編②)
http://www.sr-de.com/single-post/2016/12/18/taikikouchiri

 

 

http://www.sr-de.com/single-post/2016/12/21/tainoseiji

 

 

 

 

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